上田 元俊(うえだ もととし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・江戸幕府旗本。松平広忠・徳川家康に仕えた。通称は兵庫。
生涯
享禄2年(1529年)、松平清康の家臣・上田元次の子として生まれる。
天文17年(1548年)4月15日、松平広忠に背いていた松平信孝(三木松平家)は、岡崎城に向かって進撃した。広忠勢は伏兵を設けて信孝を待ち受けており、明大寺村(現在の岡崎市明大寺町)の菅生河原(耳取縄手)で信孝を攻撃した(安城合戦・耳取縄手の戦い)。信孝は左の脇を射られ、ついには元俊によって討ち取られた。この時元俊は、生涯歩行が困難になる傷を負った。この功績により、元俊は三河大浜に知行地を与えられ、「金の三本傘の指物」(金三蓋傘形指物)を許された。
のちに家康の命によって、信孝の次女が元俊に嫁いだ。元俊が小禄であったために彼女には化粧料が与えられた。
元俊は三河国内で城の留守番・同番頭を務めた。天正18年(1590年)、徳川家康が関東に移されると、元俊は江戸城の留守番頭となった。のちに武蔵国橘樹郡内で210石あまりを知行した。家康からは「白地に朱日の丸の四半」や茶壷・茶臼を拝領している。
その後、老齢を理由として務めを辞し、知行地で隠棲した。
慶長14年(1609年)7月12日没、81歳。武蔵国稲毛荘の泉沢寺(現在の神奈川県川崎市中原区上小田中)に葬られた。
備考
- 家康が元俊に下賜した茶臼は現存しており、1971年に上田家の末裔から徳川美術館(愛知県名古屋市)に寄贈された。茶臼は茶道具としては珍重して保存されることが少ないため、伝世品は珍しいという。
- 同様に徳川美術館には「金三蓋傘形指物」が寄贈されている。「金三蓋傘形指物」は松平広忠から下賜されたものと伝承されている。
系譜
特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。
- 父:上田元次
- 母:石川清兼の娘
- 正室:松平信孝の娘
- 三男(3):上田元政 - 家督を嗣ぐ
- 四男(4):上田俊勝 - 別家を立て旗本となる
- 生母不明の子女
- 長男(1):上田直勝 - 酒井重忠に附属され、のちにその家臣となる
- 二男(2):教山善誉 - 三河山中法蔵寺住職、のち京都誓願寺住職
- 女子(5):上田元吉の妻
- 女子(6):清水平右衛門の妻
- 女子(7):上田孫九郎の妻
- 女子(8):羽太正俊の妻
脚注
注釈
出典
参考文献
- 『寛政重修諸家譜』巻第二百十五
- 『寛政重修諸家譜 第二輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082719/53
- 『新訂寛政重修諸家譜 第四』(続群書類従刊行会)




